坂本龍馬(高知)


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坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、日本の近世末期に活動した武士。土佐藩出身。

諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。龍馬は通称。 他に才谷 梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある。

土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。

司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公として描かれて以降、知名度を飛躍的に上げ、幕末の風雲児として国民的人気を得る。




海援隊
龍馬と海援隊
海援隊旗 二曳(にびき)と呼ばれていた
先に帆船ワイルウェフ号を喪失し、ユニオン号も戦時の長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまった。慶応2年(1866年)7月28日付の三吉慎蔵宛の手紙で龍馬は「水夫たちに暇を出したが、大方は離れようとしない」と窮状を伝えている。 この為、薩摩藩は10月にワイルウェフ号の代船として帆船「大極丸」を亀山社中に供与した。

将軍・家茂の死後、将軍後見職一橋慶喜の第15代将軍就任が衆望されたが、慶喜は将軍職に就くことを望まず、まずは徳川宗家の家督のみを継承していた。8月末頃、龍馬は長崎に来ていた越前藩士・下山尚に政権奉還策を説き松平春獄に伝えるよう頼んだ。 龍馬が政権奉還論を述べた最初の記録だが、政権奉還論自体は龍馬の創意ではなく、幕臣大久保一翁がかねてから論じていたことで、龍馬と下山の会見以前の8月14日には春獄当人が慶喜に提案して拒否されていた。

尊攘派土佐勤王党を弾圧粛清した土佐藩だが、この頃には時勢の変化を察して軍備強化を急いでおり、参政・後藤象二郎を責任者として長崎で武器弾薬の購入を盛んに行っていた。航海と通商の専門技術があり、薩長とも関係の深い龍馬に注目した土佐藩は11月頃から溝渕広之丞を介して龍馬と接触を取り、翌慶応3年(1867年)1月13日に龍馬と後藤が会談した(清風亭会談)。結果、土佐藩は龍馬らの脱藩を赦免し、亀山社中土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、これを機として4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改称した。

海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や他藩の脱藩者中の海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機等の商業活動を行い土佐藩を助けることとされ、隊士は土佐藩士(千屋寅之助沢村惣之丞高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)および他藩出身者(陸奥陽之助紀州藩)・白峰駿馬(長岡藩))など16〜28人、水夫を加えて約50人から成っていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。

海援隊結成から程なく「いろは丸沈没事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する(一航海500両で契約)蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法を基に紀州藩側の過失を厳しく追求、さらには紀州藩を批判する流行歌まで流行らせるなどした。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって5月に紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器35,630両や金塊や陶器などの品47,896両198文の賠償金83,526両198文の支払に同意した。その後減額して70,000両になった。

海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地や竹島の開拓も構想しており、後年妻お龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。 一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎三菱財閥創業者)はたびたび金の無心に来る海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。


いろは丸事件


いろは丸と明光丸の海路図
御手洗航路上を西進していた明光丸を発見したいろは丸は、左に舵を取り、遅れていろは丸を発見した明光丸は右に舵をとった後、左に戻し、衝突した。衝突後、いろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったが、当直士官が甲板にいなかったという。またその後明光丸はいったん後進していろは丸から離れたが、再び前進して再度いろは丸に衝突、これが沈没の原因となった。明光丸は乗組員全員を乗せ、いろは丸を鞆港に曳航しようとしたが途中で沈没した。


龍馬


いろは丸とされる画像

wikiより


コメント
龍馬については有名なので「いろは丸事件」について簡単にまとめると、龍馬が海援隊(日本初の株式会社、以前の亀山社中)っていう会社を作って船で仕事しようぜえ!ってしてるところに船を広島県鞆の浦付近で2回もぶつけられて、沈没してしまって、龍馬が怒って訴訟を起こしたって感じです。日本で初めての海難事故で初の海難裁判だったはず?
鞆の浦はまだいってないので、いったら写真をアップしたいと思います(2012年2月27日現在)