平時子

平 時子(たいら の ときこ、大治元年(1126年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日)は、平安時代末期の女性。平清盛正室(継室)。位階は従二位。二位尼(にいのあま)と称される。中級貴族の平時信の娘で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(氏素性は未詳)。権大納言平時忠の同母姉、建春門院平滋子の異母姉。清盛との間に宗盛、知盛、重衡、建礼門院徳子らを生む。


第一子の宗盛の誕生年より、久安元年頃、清盛の後妻として迎えられたと推測されている。平治の乱後、二条天皇の乳母となり、永暦元年(1160年)12月24日、八十島典侍の賞により従三位に叙された(『山槐記』同日条)。時子が二条の乳母となり、清盛が乳父となったことは、信西の地位の継承の狙いとともに、後白河院と二条の対立の中で、二条への従属と政治的奉仕の姿勢を示すものと考えられている。二条の崩御後、後白河の寵妃となった異母妹滋子とともに清盛と後白河の政治的提携強化の媒介となり、仁安元年(1166年)10月10日、滋子の生んだ憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子すると、同年10月21日従二位に叙せられた(『兵範記』同日条)。

仁安3年(1168年)清盛とともに出家、清盛が福原へ遷ると西八条第を継承し、八条櫛笥亭(八条二品亭)と名称を改めている。承安元年(1171年)、徳子が高倉に入内すると、中宮の母として徳子の出産に関わったほか、高倉の諸皇子女の出生や成長儀式にも深くかかわり、清盛一門と王家との関係を結ぶ役割も果たした。

清盛による治承三年の政変の後、治承4年(1180年)4月に徳子の生んだ外孫安徳天皇が即位すると、清盛とともに准三宮の宣旨を受けた(『百錬抄』治承4年6月10日条)。清盛はその晩年、宗盛を後継者とする意志を強く見せたため、亡き重盛流の小松家は嫡流からはずれ、時子の出自が新たに嫡流となった。

清盛亡き後は、宗盛や建礼門院徳子の母である時子が平家の家長たる存在となり、一門の精神的支柱として重きをなした。壇ノ浦の戦いで一門が源氏軍に最終的な敗北を喫すと、安徳に「浪の下にも都の候ぞ」(『平家物語』)と言い聞かせ、幼帝を抱いて海中に身を投じ自殺した。

なお『吾妻鏡』には、時子は、三種の神器の一つ天叢雲剣を持ち、安徳は按察使局が抱いて入水したとあり、按察使局は引き上げられて助かっている。また『愚管抄』には、時子が安徳を抱き、さらに天叢雲剣三種の神器のもう一つである神爾を具して入水したとある。
wikiより



http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/16_ta/taira_no_tokiko.htmlより
平時子


コメント
平家物語歴史館で入水シーンを撮ったと思ったのですが、もし見つかりましたらアップします。

しかし、なぜハンコック…。黒髪長髪だったから?
ストラップはルフィとハンコックが一緒についてるやつを買いました。
清盛がルフィなら、完全にあれだよね。夫婦だ(爆)
納得いかんぞ〜!

ちなみに平清盛はこちら
http://d.hatena.ne.jp/gotouchi-onepiece/20120227/1330356981